子供の頃、父は単身赴任で離れて暮らすことが多かった。そんな父との幼少期の思い出のひとつは、父がたまに赴任先から帰ってきた時にしてくれる寝る前の本の読み聞かせ。わざとなのかちゃんと読もうとするとそうなってしまうのか、父は音読をすると故郷の言葉・鹿児島弁になる。その訛りがおかしくてつい笑ってしまい寝るどころでなかった。でも決まって2、3ページも進むといつの間にか寝てしまい気づけば朝になっていた。
『K.テンペスト』のプロスペローとミランダのやり取りを見ていたら、ふとそんなことを思い出した。2019年版の『K.テンペスト』は、プロスペローがミランダへ読み聞かせしていたと思ったら気づくと寝ていて、物語がひとりでに走り出す、そんな印象だった。読み手はプロスペローから、自然を謳うスピリット(精霊)たちに、海中でにぎやかにささやく貝たちに、そして遠い記憶の中の自分自身にもなるような…。
劇中盤、原住民キャリバンが島の漂着者2人に向かって、ほら聴いて、島は音楽で溢れているよ、と言う場面が妙に好きだった。演出的には全くの無音の中で行われるこのシーン。かすかな観客の息づかいと建物の軋み以外は何も聞こえるはずがないのに、あの場には確かにキャリバンの言うように音楽が溢れていた。耳で感じるもの以外のたくさんの音たちが。あんなに音に満ちた静寂を今まで聞いたことがない。
キャリバンはこうも話す。
“‥‥この島はいろんな音や
いい音色や歌でいっぱいなんだ、楽しいだけで害はない。
ときには、何千もの楽器の糸を弾くような調べが
耳元に響く。ときには歌声が聞こえてきて、
ぐっすり眠ったあとでも
また眠くなったりする。そのまま夢を見ると、
雲の切れ間から宝物がのぞいて、
俺のうえに降ってきそうになる、そこで目が覚めたときは
夢の続きが見たくて泣いたもんだ ”
(第3幕第2場、『シェイクスピア全集8 テンペスト』松岡和子訳、ちくま文庫)
宝物に手が届きそうで届かないキャリバンは悲しそうに見えた。
でも思う。宝物はちゃんと私たち観客には降っていたのではないかと。雲でなく現実と夢の切れ間から、K氏の錬金術にかかった魔法の時間という宝物が。
プロスペローが復讐する相手を赦すことを決めるきっかけが、空気のスピリット・エアリエルの心の動きだったのも印象的だった。
空気でしかないスピリットでさえ心を痛める憎しみの深さに気づき我に返るプロスペロー。
“空気にすぎないお前までが、
あの連中の苦しみにこころを動かし、感じることがある、
それなのに俺が、 同じ人間であり、同じように痛切にものを感じ、
喜怒哀楽をいだく俺が、お前より情けに動かされないことが有ろうか?”
現代でもスピリットたちはいるだろうか。
彼らのような純粋なものたちだけが聞くことができるという“天上の音楽”を聞ける心を持ちたい。
きっとその音楽は、プロスペローの最後のセリフにある“願いの力が大気にとけて、再び歌に”なったものだから。
チラシにはこう書かれている。
———
これは海で溺死したものたちの遥かな夢である。
海底に漂ったものたちの、懺悔に近い想いである。
砂となって海辺にうち上げられ、また引いていった骨のかけらたちの、悔恨と願いである。
われわれは、たとえ無自覚であっても、何万億の死者たちの聞こえない声に包まれている。
そして遠い未来の、ほとんど宇宙そのもののような命の根源の聞こえない声に導かれている。
と、今この瞬間にしか生きていると自覚できないわれわれは、ぼんやり想う。
そして、音楽が生まれ、物語が生まれ、演劇が生まれる。
400年前のイングランドでも、そして現在のこの地でも。
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日本での公演は本日までで、このあとセルビアとルーマニアに巡演するとのこと。
はぁ〜付いていきたい。
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『K.テンペスト』
作:W.シェイクスピア
演出・潤色・美術:串田和美
出演:串田和美、藤木孝、大森博史、松村武、湯川ひな
近藤隼、武居卓、細川貴司、草光純太、深沢豊、坂本慶介
飯塚直、尾引浩志、万里紗、下地尚子
5月16日(木)~19日(日) まつもと市民芸術館 特設会場
5月22日(水)~26日(日) 東京芸術劇場 シアターイースト