Jun102017

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或いは、テネシーワルツ / Aruiha Tennessee Waltz

縁あって串田さんの稽古を何度か見学させてもらったことがある。串田さんの稽古スタイルはすぐに台本を手にせず、まずは出演者と車座になってじっくり語り合う。話題はメンバーの幼少期の体験談や原風景などの遠い記憶の話。
僕はその稽古場で語られるみなさんのエピソードが大好きで、仕事そっちのけで見学に行っては聴きふけっていた。そしてこれがこのまま本になったらいいのになぁと思っていた。

先日上演された『或いは、テネシーワルツ』では、ある意味その夢が叶った気がした。『或いは、テネシーワルツ』は本ではなく舞台だけれど、まさに僕が好きで聴き入っていた稽古場で交わされたであろうエピソードが詰まったものだった。

芝居はバスを待つ男が手持ち無沙汰で語りだすという設定。きっと脚本の加藤さんはじめ、串田さん、佐藤さん、下地さんが見聞き体験したであろうことをそのバス待ち男が虚実織り交ぜながらどんどんと語り舞台は進んでいく。

語られる話の数々は、とりとめのない思い出話のようで、洒落たラブストーリーのようで、不条理な小話のようで、時に心に語りかける詩になってみたり、問いを投げかける哲学になってみたり、マジックやサーカスにさえなった。一人語りがそうさせたのだろうか途中斬新な創作落語にも思えた。
そして、一見なんの脈絡もなく語られるエピソードは最後……と、詳しくは再演の際に是非ご覧頂きたい。(本当は一言で語れないので説明できない…汗)

演者、関わったスタッフの記憶から紡ぎ出されるこの『或いは、テネシーワルツ』。そう考えると人の記憶の数だけそれぞれの『或いは、テネシーワルツ』がありそうだ。関わる人、上演される場所によってこの芝居は変化していくかもしれない。先日の公演を思い返すと想像が膨らみ、すでに再演が待ち遠しくなっている。

そう言えば自分にはどんな記憶があるだろうか、ふと記憶の棚卸しをしたい気持ちになった。
自分の記憶は『或いは、テネシーワルツ』のようなドラマを生み出しうるだろうか。生み出しうるとしたらそれが自分の仕事であるデザインに生きてくれるといいなぁと思ったり。
串田さんはよく「演劇的」という言葉を口にする。あの日の芝居、その創作の過程は全て演劇的なことだったのだろう。だとしたらそれはとても刺激的なことだ。演劇的にデザインしてみたらどうなるのだろう、僕はここ数ヶ月演劇的なるものが気になっている。それは新しい創作の風を自分に運んでくれると直感している。

『或いは、テネシーワルツ』の感想のために書き始めたつもりが、最後は思いつきのメモのようなものになってしまった…。それもある意味演劇的?なのかもしれない。とにもかくにも今後のトランクシアター(※)の動きに注目していきたい。

※トランクシアターとは、大掛かりなセットを建て込むような作品とは違い、旅行鞄ひとつに芝居を詰め込んで、ふらっと訪れた先で上演をするまつもと市民芸術館のプロジェクト。

P.S.
写真は会場の廃園となった保育園を見学させてもらった時のもの。