先日まつもと市民芸術館で観たロマンス劇『K.テンペスト』が感動的だった。
この芝居はシェイクスピア最後の作品と言われる『テンペスト』に演出家の串田和美さんが新たな解釈を加えたもの。(それで頭文字に「K.」がつく)
ストーリーは、
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ナポリ王アロンゾー、ミラノ大公アントーニオらを乗せた船が大嵐に遭い難破、一行は絶海の孤島に漂着。その島には12年前に弟アントーニオによって大公の地位を追われ追放されたプロスペローと娘ミランダが魔法と学問を研究して暮らしていた。そして…
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詳しくは実際の芝居を観ていただくとして、本編ではストーリーの合間に串田さんの解釈によるさまざまなエピソードが差し込まれる。その中に量子力学の話があった。
量子力学の考え方によって起こるおかしな状況をコミカルに演じるステファノー役の大森博史さん。終演後に「我々は夢と同じ物で作られている」という劇中の代表的なセリフを引き合いに出して、夢といったものは量子力学的なものと関連していて、シェイクスピアは400年前に直感的にそのことに気付いていたのではないかというようなことをおっしゃっていた。面白い。
量子のミクロな世界ではあらゆる可能性が混ざった状態で存在しているという。「シュレーディンガーの猫」の実験では、箱の中の猫は箱を開けて観測されるまでは「生きている状態」と「死んでいる状態」が混ざった状態で存在すると考えられる。(難しいですね…すみません…)
乱暴に言うと、自分の目に見えてない世界はいろんな可能性が同時に存在しているということか。例えば親と離れて暮らしているとして、その親は今起きてるかもしれないし、寝てるかもしれないし、歩いているかもしれないし、座ってるかもしれない。量子力学の世界では、それら全てが同時に存在しているという話。
私たちが夢と呼んでいるものは、もしかして量子力学的に言えば、同時に(並行世界的に?)重なり合って存在しているあらゆるものが、見えたり見えなかったりしているものではないか。そんなイメージがよぎった。シェイクスピアが400年前にしてそのような想像力を持っていたとしたら、それはとても神秘的な話だ。
チラシにはこう書かれる。
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これは海で溺死したものたちの遥かな夢である。
海底に漂ったものたちの、懺悔に近い想いである。
砂となって海辺にうち上げられ、また引いていった骨のかけらたちの、悔恨と願いである。
われわれは、たとえ無自覚であっても、何万億の死者たちの聞こえない声に包まれている。
そして遠い未来の、ほとんど宇宙そのもののような命の根源の聞こえない声に導かれている。
と、今この瞬間にしか生きていると自覚できないわれわれは、ぼんやり想う。
そして、音楽が生まれ、物語が生まれ、演劇が生まれる。
400年前のイングランドでも、そして現在のこの地でも。
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少し難しい話になってしまったが、そこまで考え込まなくても十分に楽しめる。
ロマンス劇と評されるように、劇中は魔法に満ちた世界。舞台と客席がフラットであること、ケチャにホーメイ、ブルガリア民謡など、400年前のイギリスではけっして思いつかれることがなかったであろう演出が、全て夢や魔法となって観客に染み込んでくる。
串田さんが砂浜から着想を得たという叙情的な美しい世界を目の当たりにして、想像することの豊かさに改めて気づき、想像の力をもう少し信じてみたいと思った。
今週末3/11(土)、12(日)に神奈川芸術劇場に巡演するので、関東圏にいて予定がまだの方は是非。
P.S.
串田さんが稽古を始める前に手にした『新訳 テンペスト』(2016年刊行)の話もおもしろかった。訳者 井村君江先生(妖精学の第一人者)は、従来の訳で“妖精(フェアリー)”とされていたものが、原文をたどると“精霊(スピリット)”であったこと、そしてスピリットという表現はシェイクスピア37作品中で『テンペスト』にしか出てこないことに気づき、その謎を知りたくて新訳を出したとのこと。“妖精”と“精霊”の違いはなんなのか。そういった視点から観ても串田版『テンペスト』を楽しめるかもしれない。